よもやま話

櫛田神社縁起略記
櫛田神社縁起略記

中殿に大幡主命(おおはたぬしのみこと)、左殿に天照皇大神,(あまてらすおおみかみ)、右殿に素盞鳴命(すさのおのみこと)、を祀る。
大幡主大神は天平宝字元年(757)に鎮座し、素盞鳴は天慶4年(941)藤原純友の反乱の鎮圧にあたった小野妹古が神助を祈願し山城(京都)祗園社から勧請した。天照皇大神についてはあまりに古くて記録にない。中世、兵火に遭って度々荒廃したが、天正15年(1587)、秀吉公が博多町割とともに現社殿を建立、寄進した。古来、商売繁盛、不老長寿の守り神として信仰をあつめている。博多の人々は、親しみを持って、”お櫛田さん”と呼ぶ。山笠は、素盞鳴命(祗園宮)に対する奉納行事です。


オイッサ!

集団で行動するときの掛け声は、「ワッショイ」が多い。全国の多くの祭りでもそうでしょう。しかし、博多山笠では、「オッショイ」。
お汐井とりと関係あると言われるが、本当のことは分からない。昔からそうだから。
そして、重い山笠を担って走ると「オッショイ」が次第につまって、「オイッサ、オイッサ」になる。リズムがでて、気持ちもひとつになると山笠のスピードも増す。この掛け声は、”日本の残したい音百選”に選ばれている。


勢い水
勢い水

舁き山笠が動き出すと、盛んに水がかけられる。舁き手は身も心も燃えている。
かけられる水は、自動車にたとえると、エンジンを冷やす冷却水。過熱を冷やす役目がある。さらに道路を濡らし、山の脚についてる胴がねも冷やし、山笠もスムーズに動く。コース各所に水桶(バケツ)が準備され、先走りの男たちが、手に持ったバケツでヤマに舁き手にかける。沿道の見物人からも。清水(きよいみず)とも言う。
←勢い水がかかる様子
台上がりが持つ赤いものは、”鉄砲”と言い、台上がりの花形道具。
舁き手を指揮鼓舞する。


きゅうり断ち
きゅうり断ち

博多人は祭り期間中、胡瓜を口にしない。サラダに入っていてもつまみ出す。学校給食にも出ない徹底ぶり。
祗園様(素盞鳴大神)の神紋が、胡瓜の切り口に似ており、畏れ多いというわけです。しかし、織田信長が天正年間に、京都・感神院(現八坂神社)に寄進した御輿の紋に由来するとされる祗園様の神紋は木瓜(ぼけ)であり、胡瓜とは異なる。旬のものを断って、神様に精進潔斉を示すということでしょう。


清道旗
清道旗

追い山、追い山ならしには3つの清道がある。櫛田神社境内と、東長寺、承天寺前で、そこには「清道旗」が立てられる。櫛田神社の清道旗が無かった時代は、櫛田入りの方法(廻る基点)がまちまちであったので、嘉永元年(1848)東町下によって建てられ、これを廻るようにした。現在でも旧東町の人たちが管理している。縦6.5m、横90cm。
東長寺、承天寺は明治26年から。旗は、江戸時代の琉球貿易船の舳先に飾られ、航海の安全を祈ったとされる。また、幕末には朝鮮通信使の行列にあり。とか、はっきりとは分からない。博多が、海とともに栄えた土地柄だからかもしれない。


清道
清道

清道とは「天子の行幸の道を払い清める」「先払い役」などの意味。
櫛田神社は、山笠を祗園様に奉納するために廻る。
東長寺は、神仏混淆時代に櫛田神社のお寺で櫛田神社に神官はおらず、寺の住職が祝詞をあげていた頃もあった。その恩に山笠を奉納している。
承天寺は、山笠発祥之地と伝えられるところ。
二つのお寺は、住職が姿を現し、山笠の”表敬”を受ける。台上がりも”目一本”(会釈)をする。神事でありながら、仏教も忘れない。
※神仏混淆(しんぶつこんこう)とは、仏教を浸透させるため、日本固有の神と仏様を融合させた。明治維新の神仏分離令(1868)まで、わが国の宗教観念だった。


7月15日午前4時59分
7月15日午前4時59分

昔、山笠行事は旧暦の6月1日から15日までであった。つまり”新月”に始まり、”満月”の夜明けに「追い山」が行われていた。満月が西に沈み、太陽が東の空を明け染めるころ、祭りは最高潮を向かえる。祭りは現在、7月1日から15日(新暦)までとなったため、月の運行と合致しないが、他の多くの祭りが運営や人集めのため、曜日に合わせたり、昼間や夕刻に移行する中、夜明けの神事を守り続けている。舁き山笠の出発は、5分おきなので、午前5時ちょうどでも問題はないが、一番山笠だけは、清道旗を廻り、能舞台に向けて山を止め、
♪祝いめでた~の~・・と「博多祝い唄」を唄う。それを1分間とみている。そこで1分先取りして、4時59分というわけです。この微妙な4時59分がより一層の緊張感を持たせます。時間の計測は、山が静止している間止まって、再び動き出すと始まる。
時計での計測は、明治38年頃、当時中洲にあった幸田時計店に話が持ち込まれ、今も幸田家が奉仕している。その頃、中洲には山笠がなかったため、正確に計ってくれるだろうという話。


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博多手一本

祭りは集団行事。何かと決まり事も多いし、あいさつも多い。そこで使われるのが、「博多手一本」です。協議がまとまると、「異議ありません。」と手を入れる。後日、異議は唱えないという、暗黙の約束がある。大変重い意味を持った大事な手順です。会合など集まりの締めなどでも必ず。
また、もめごとがあった場合でも両成敗となり、手一本を入れ、あと文句を言わない。
宴席などでは、博多祝い唄のあと、手一本を入れる。福岡証券取引所でも、大初会、大納会で用いている。関東の”三本締め”よりゆったりしてる。足を軽く開き、手を肩幅以上広げない。
よー シャン シャン
まひとつしょ シャン シャン
祝うて三度 シャシャン シャン 
  (よーと三度)

博多祝い唄

おめでたい席ではもちろん色々な集まりの最後に締めとして唄われる。
追い山櫛田入りには、一番山笠にだけ許される唄。元唄は、伊勢音頭と言われる。お伊勢参りに出かけた人たちが、そこで歌われる唄を覚えて、故郷に持ち帰った。全国各地に、同じような歌詞があるが音符がなく、節回しが違ってきた。
【博多祝い唄】
櫛田入りは、一番のみ。通常は三番(3つ)唄うが、その時の場面に応じて、三番を選ぶ。特に、櫛田さんのことの時は、”さても見事な”、披露宴には、”旦那大黒”、 ”あんた百まで”などを入れる。
一、祝いめでたの 若松さまよ 若松さまよ  枝も栄ゆりゃ 葉も繁る(しゅげる)
   ※エーイーショウエー エーイーショウエー  ショーエ ショーエ 
   (ア)ションガネ アレワイサソ エーサーソー エー ションガネ※
一、こちの座敷は 祝いの座敷 祝いの座敷
   鶴と亀とが 舞い遊ぶ    (※はやし言葉繰り返し)
一、こちのお庭に お井戸を掘れば お井戸を掘れば
   水は若水 金が湧く    (※はやし言葉繰り返し)
一、さても見事な 櫛田の銀杏(ぎなん) 櫛田の銀杏
   枝も栄ゆりゃ 葉も繁る    (※はやし言葉繰り返し)
一、旦那大黒 ごりょさんな恵比寿(えべす)
  ごりょさんな恵比寿  でけた子供は 福の神  (※はやし言葉繰り返し)
一、あんた(ああた)百まで わしゃ九十九まで
  わしゃ九十九まで  ともに白髪の生える(はゆる)まで (※はやし言葉繰り返し)


山の構造

構造材は、桧、杉、桜、樫などで、込栓や縄によって一体化され釘は使われません。
山台は毎年、組立・解体され10年程使われます。長い歳月の中で、山大工による木組みの知恵と技術が組みこまれています。
舁き棒の寿命は長く、以前には80年以上も使われた棒もあった。

山の構造写真1
しおり

4本の台脚の上に置く四角の天板。この上に人形を置く。

棒受け

山笠台の肋骨。上に”棒ぐり”を取り付け、6本の舁き棒を麻縄で固定する。

八つ文字縄

4本の台脚の上下を荒縄で対角線に固定したもので、その形から八つ文字と呼ばれる。台脚にかかる衝撃を吸収し、台のゆがみを復元させる。
八つ文字の下、台脚を対角線に荒縄で固定補強した”火打ち”がある。

への字

4本の台脚を補強する。山直前で人が転んでも、台で潰さないように、への字に湾曲している。

胴がね

台脚にはめる鉄の鋳物。
1トンの重さの山笠を支えて走る鉄沓は、道路との摩擦で熱を発し擦り減る。
博多の道路には胴がねの傷痕をあちこちに発見できる。

鼻縄

荒縄を束ねたもので、鼻取が握って山の舵取りを行う。

山の構造写真2
台幕

祗園宮、櫛田宮、大神宮の紋を入れた幕。飾り山は赤色、舁き山は紺色。

杉壁

しおり台の上に、杉の葉の垣を結び回したもの。四方を囲む。中には、台上がり使う”鉄砲”が付けられている。

大弓

赭熊の両側に差して飾る。魔除けの意味がある。

赭熊

赭熊(しゃぐま)とは、本来赤く染めた白熊の毛。それを束ねて柄をつけたものを払子(ほっす)と言い禅僧道具などに使う。山笠では白い毛を使い、飾り据えた山笠の見送りに飾る。大弓とともに非常に高価。

差し札

流名と、飾りの標題を書く。小さな子供たちも魔除けに書いて、お祓いを受ける。

台旗

祗園宮の神紋を染めた旗。流名や、その年の総務の名前を入れる。台幕と同様、飾り山は赤(紫)、舁き山は紺。


山笠と牡丹

舁き山笠、飾り山笠どちらにも牡丹(造花)が飾られている。どうして山笠に牡丹か?「切木の牡丹」説というのがある。
切木(きりこ)は佐賀県東松浦郡肥前町にある地名。ここの民家で育てられている牡丹は大輪で、佐賀県の天然記念物に指定されている。地元の言い伝えによると、この牡丹は今から約400年前、同地方を支配していた波多三河守が大切に育てていたものという。
三河守が太閤秀吉の九州平定のおり町割りに参加せず怒りの触れ、城は焼き払われたが、その際、三河守の妻が重臣に依頼、ひそかに持ち出され切木に移し植えられた。三河守が参加しなかったのは、秀吉が三河守の妻”秀の前”に横恋慕したのが原因と言われてる。博多人は三河守に同情、山笠に飾るようにしたというのだ。


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手拭

山笠を運営していく上で、色々な役職がありその役割と責任をあらわすもの。一目で役がわかるようになっている。
流によって若干の違いはあるもの、大まかには共通してます。てぬぐいを博多では、”てのごい”と呼ぶ。

■総務(そうむ) 
赤と紺のしぼり
流(当番町)に1名
その年の流の総責任者。
振興会役員もこれをする。
■宮総代(みやそうだい)
茶色  流に2名
年間にわたって、お宮のお世話をする。
■町総代(ちょうそうだい)   
赤、白、紺  各町に1名
町の代表者(町内会長)
■流委員(ながれいいん)  
赤、紺、茶、緑 流に5~6名
山笠行事全般を取り仕切る、建設委員
■町相談役(ちょうそうだんやく)
緑、紺  
この手拭は中洲流独自のもの
各町の役員OBなど
■取締(とりしまり)
赤、白  各町に1名
山笠実動時の最高責任者
■衛生(えいせい)
紺、白  各町に5~6名
取締の補佐、各町運営の取りまとめ、怪我人が出た場合など救護班に。
■赤手拭(あかてのごい)  赤
山笠の実働部隊、普通最初に授かる役員手拭。毎年変わります。

■白手拭(しろてのごい)
一般に参加する人たちの手拭。誰でも最初はここから。
役職としては、各流違いがあるものの中洲流をたとえると、他に振興会(顧問・相談役・本部役員)、流相談役(総務OB)、副総務(総務の代行)、流会計(流の金銭出納)、流監査(会計の監査)、庶務(行事全般の補佐)、若手頭(取締の補佐、若手の指導)などがある。

【年齢階梯(かいてい)制】
博多祗園山笠は、国の重要無形民族文化財に指定されてますが、祭りそのものはもちろんのこと、それを運営する自治組織(流)も含まれてます。町ごとに子供、若手、中年、年寄りと分けられ、それぞれが役割を分担する”年齢階梯制”がそれです。若手と中年が中心となって動かす舁き山笠、それをまとめる取締、そして流委員、町総代など、手拭によって役割分担をしてます。山笠経験が長い人が敬われる。若い人はもちろん社会的地位がある人でも、最初は掃除や皿洗いからやります。そして、山笠経験をつんで認められると赤手拭となる。規律が厳しく、”長幼の序”を重んじている。1年を通して、各町内の様々な行事などにもそれぞれの役職が関係する。


法被
法被画像

町や流ごとに違い、法被で所属がはっきりわかり下手なことは出来ない。中洲流では統一。
法被には2種類ある。実際に山舁きのとき着用するのが→水法被。勢い水を浴びるとこらからこの名前がついた。前を固く結ぶ。転んだ時でも法被を掴んで、起こしやすい。そして締め込み(白や紺)。小さい子供は赤が可愛い。足は脚絆、地下足袋。もうひとつは、←当番法被(長法被とも言う)。久留米絣で、6月1日から祭り終了まで着用が認められる。足は雪駄か下駄。期間中の正装で冠婚葬祭もこれで行く。一流ホテルでも出入り自由。
江戸時代の山笠屏風絵などを見ると、全員が裸で下帯び(へこ)だけで、足はわらじか、裸足です。明治に入り、文明開化の影響で、揃いの法被を着るようになった。山笠以外では、正月3日の箱崎宮玉せせりなどは今でも下帯び(へこ)だけです。
↓舁山七流の当番法被、図柄です。それぞれの流、町で違い、法被を着ることで誇り、責任を感じます。

法被一覧
博多の子供 ~博多んもんは、山笠で育つ~
博多の子供画像

博多の子供たちは、生まれた時から山笠の洗礼を受けます。赤ん坊に法被を着せ、大事に抱えて山笠に出る父親の姿もあります。次の年は、ヨチヨチ歩いて、物心つく前から山笠に参加します。走れるようになると、町内のお兄ちゃんや友達同士で、山笠のはるか前を走ります。これを”先走り”と言います。9・10歳頃まで、女の子の参加も多い。小学生高学年の頃になると、ただ走るだけでなく”招き板”(左の写真)を持って走ります。山舁きが終わって詰所に戻り、大人とまじって一緒に直会、そしてお菓子や花火、おもちゃをもらうのが子供たちの無上の喜びであり、楽しみです。また、子供たちには挨拶などしつけを厳しく言います。中学生ぐらいになると思春期、締め込み姿のお尻を出すのが恥ずかしくなりますが、山笠の魅力には勝てません。先走りだけでは物足りなくなり、後押しから、山笠の台に近づいてきます。体格が大きくなり、山笠の棒に肩が届くようになると最初は怖々でも、棒につき山を舁くようになります。この頃になると若手の一員として、一人前に扱ってもらえるのが嬉しいものです。こうして毎年出ているうちに一人前の舁き手として、また山笠が好きで好きでの”山のぼせ”が出来上がっていきます。大人に成長し一人前の男と認められると”赤手拭”を渡される。昔の人は、婿の条件のひとつだったという。「赤手拭やったら、”うちの娘を嫁にやってよかばい”」とおやじさん。人格もあらわし、信用でもあったそうな。


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表と見送り

山笠の前を「表」、後ろを「見送り」と呼ぶ。山小屋は、櫛田神社の方角へ表を向ける。飾り山で表には、合戦や武者もの、見送りにはテレビや童話などを題材にしたものが飾られる。


差し山と堂山
差し山と堂山

一番から奇数番号の山笠を”差し山”と呼び、二番から偶数番号を”堂山”と呼ぶ。舁き山にはそれほど飾り物を飾る余裕はなく、飾り山は派手なものが喜ばれと言った事情もあり、その違いはわかりにくい。しかし、差し山には勇壮な飾り物、堂山には優美な飾り物を飾ることが約束事で、その精神は今も受け継いでいる。差し山には「大神宮」「櫛田宮」「祗園宮」の三神額が、堂山にはお堂(屋形)が山笠の最上部につけられている。『櫛田社鑑』に「宝永5年(1708)、公命により本年より一番、三番、五番を修羅(しゅら)、二番、四番、六番を鬘(かずら)に作らしむ。」とある。


山笠と博多織

二つの伝統の融合。博多織は、山笠と同様、760余年鎌倉時代からの伝統があります。しかし、従来の西陣織に比べ高価で色合いなどが違ったため使われなかったが、博多人形協同組合と博多織協同組合が「後継者育成の相乗効果が期待できると」合意。平成14年より初めて、博多の伝統産業、博多人形と博多織の二つの伝統文化が融合しました。両組合の共同研究で、10柄28色の金糸、銀糸の華やかなデザインの生地が織りあがり、山笠人形を彩っています。


江戸時代の絵

博多祗園山笠屏風絵 (江戸時代中期)
所蔵:軍鶏と地どり料理 朱鷺かまど
(てら岡グループ)博多区中洲5丁目
その昔は、絵のように高さのある山笠を舁いていた。
15m以上あったと思われる。


博多祗園山笠塀風
博多祗園山笠振興会発行(平成6年)の本の表紙に使われた、
櫛田神社所蔵の絵です。


表題

人形を飾りつけた山笠には、それぞれにタイトルがつけられている。祭りを前に、流役員は人形師に依頼して構図をまとめるとともに標題を承天寺や櫛田神社、地元の史家に付けてもらうのがふつう。標題は3、5、7文字と奇数で表現する。よく使われる「勲(いさおし)」は勇ましく、「誉(ほまれ)」は明るく。十分意味はあるが、文字が偶数になった場合、この1字を入れるとたちまち奇数になるという効能も。アニメを素材にしたものは、「-」や「!」で調整することが多い。


山笠人形(タブー)

長い歴史があるだけに、その間に飾る人形によっていろんなタブーが生まれた。「武田信玄」では、火事が起こったり、人違い殺人が起こったりと。他に、「高師直(こうのもろなお)」、「川中島」、「曽我兄弟」なども。また、竜や大蛇を作ると大雨が降るといわれてる。


人はなぜ山を舁くか?
人はなぜ山を舁くか?

760余年の伝統を誇る博多祗園山笠。日本の祭りの中でも勇壮で豪快。参加する男たちをみな”山のぼせ”にしてしまう。福岡大学体育学部の田中宏暁教授は、平成5年に実験を行い科学的立場から発表された。実験は、追い山に出る男たち8人と見物人10人を対象に追い山の前と後に採血し、血中のベータ・エンドルフィンと血中乳酸の濃度の変化を調べるものだ。ベータ・エンドルフィンは内因性モルヒネよう物質で、強い運動や長時間の運動をした時に体内に分泌される。マラソンやジョギングをした時に生じる”ランナーズ・ハイ”と言われる陶酔状態は、これが作用したものと言われる。実験の結果、見物人はほとんどベータ・エンドルフィンの量は変わらなかったが、山笠に参加した男たちすべてベータ・エンドルフィンの量は上昇。ランナーズハイの状態になっている。
疲労物質の乳酸の変化が激しいほどベータ・エンドルフィンの濃度変化も激しかった。また舁き終えての質問でも、爽快感・陶酔感を感じた人がほとんどだった。田中教授の考察によると、「山笠と同じくらいの運動をこなそうとすればかなりの苦痛を伴います。しかし、山笠や浅草の三社祭りなどの祭りには苦痛を癒したり、ストレスを解消するいろんな要素が詰まってると思うんです。それが山に魅せられた男たちを動かしてる要因の一つにもなっているのでしょう。」と。山笠には、ベータ・エンドルフィンを最大に生かすシチュエーションがある。揃いの法被に締め込み姿、仲間との一体感、祭りの開放感と追い山の緊張感などが舁き手たちに感動を与え、陶酔させる。そして、山笠は1年のひとつの節目として「また1年元気に過ごしてきて、今年も山を舁けるんだ」ということを確認し、感謝する儀式でもある。確かに山を舁くのは重労働ですが、自分の体力にあった参加方法があります。山を舁くだけでなく、先走りをしたり後押しをしたり、または山当番(山笠の警護)をしたりと。小さな子供からお年寄りまで、みんなが一緒になって参加できる祭りです。


continue

博多祗園山笠は、鎌倉時代より現在に至るまで幾度となく中断を余儀なくされましたが、そこは博多町人のパワー、時代に合うように工夫され、伝承されてきました。昔は山笠の多くの部分が口承であり、中洲観光協会の博多祗園山笠のページを作るにあたり、博多祗園山笠振興会発行の「パンフレット 博多祗園山笠」、「戦後50年博多祗園山笠史」などを、参考にさせていただきました。
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