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博多祇園山笠の起源と中洲流

博多祇園山笠が始まったのは西暦1243年(寛元元年)で、追い山笠が行われたのは、それから240年後の1687年とされている。「中洲流」が初登場したのは戦後の昭和24年7月1日からです。
博多山笠の起源は承天寺の開山、聖一国師が悪疫退散のため施餓鬼台(仏)飢餓に苦しんで災いをなす鬼衆や無縁の亡者の霊に飲食を施す法会(広辞苑)に乗り博多の町を舁き回ったのが起源とされています。
明治30年後半に飾り山笠と舁き山が分離され今日の形となっています。

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中洲流イメージ

博多・中洲は西日本最大の歓楽街。その中洲1~5丁目で構成する流。
当番町は、5丁目から順番に1丁目へ。全体で受け持つ流当番と、町内が受け持つ当番町の合わさった全町当番責任当番町制を取っている。
白い水法被に流れるような書体で青の「中洲」を染め抜いている。水法被、当番法被とも流で統一。戦後、博多山笠が再興された際、旧博多七流に新たに五流が加わった。

中洲流も新たに興されたが、町界町名整理で新旧の流が統廃合される中、一貫して『中洲』の名で参加してきた。60年の歴史を刻み、山笠の伝統を守る姿勢には確固たるものがある。
戦後、博多祇園山笠期成結成当初より、飾り山を建て、舁き山の時には山台を引き出し、別の人形を飾って舁くやり方を継承している。
夜のライトアップされた飾り山は、一段と映える。
博多祇園山笠振興会で25年もその地位にあった二代目会長の井上吉左衛門氏、さらに五代目会長の井上雅實氏と親子二代の会長を輩出している。

中洲流イメージ
中洲の歴史
中洲歴史

中洲の誕生は慶長五年(西暦1600年)。
黒田長政が福岡城築城のため福岡の町造りを行った時「福岡」と「博多」を繋ぐために中ノ島だった中洲に「中嶌橋」を架けたのが起源と言われています。

那珂川と博多川に囲まれた0.15k㎡の中洲は、西日本随一の歓楽街に発展するまでには、様々な時代の変遷の中で発展してきました。

明治時代には、東中洲に電灯会社や電話局などが開設され、また劇場や映画館も開場し博多の演劇界の中心として発展していきました。

大正初期からカフェ、バーが流行し一躍博多の盛り場として栄え、一大歓楽街地として今日に至っています。

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